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東京地方裁判所 昭和57年(合わ)88号 判決

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中九〇日を右刑に算入する。

押収してある電子ライター一個(昭和五七年押第六九七号の一)を没収する。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、中学校を一年で中退し、一時父(昭和四一年六月一五日死亡)の仕事を手伝うなどした後、昭和四一年ころから紙加工会社の従業員として働くようになり、昭和四八年ころから東京都内で母A、妹Bと一緒に生活し始め、間もなく弟Cも同居するようになり、昭和五二年八月ころ、東京都墨田区石原一丁目二九番一五号所在D所有の共同住宅(通称「中谷アパート」)二階六畳間を借り、四人が同六畳間で生活するようになつたが、被告人は昭和五三年ころ右紙加工会社をやめ、しばらく無為徒食の生活をした後、母が昭和五五年ころから肺炎等を患い、Bがその看病のため仕事をやめてしまつて、C一人が働いて生活費を工面する形になり、被告人に対して文句を言うようになつたこともあつて、昭和五六年三月ころから、玩具製造販売業有限会社マークで倉庫番として働くようになり、毎月約一四万円の給料を得て、同年八月ころから給料の中から生活費としてBに月七万円位渡し、残りを酒代等の小遣銭として使用していたが、酒好きのため毎月の酒代に事欠くことが多く、一方同居しているCも被告人が働き出すと同時に生活費を負担しなくなり、その給料をギヤンブル・酒等に費消していたことも原因となつて、昭和五七年に入つてからはしばしば生活費の負担のことで同人と喧嘩をするようになつた。被告人は、同年二月二五日に給料を受け取つた後は働らくことが馬鹿らしくなつたとして働きに行かなくなり、同年三月四日夜、働きにも行かずにBに金を無心したため、Bがこれに怒つて母を連れて家を出て行き、被告人が二人を探しに外へ出た後部屋に戻つてみると、Cが帰つてテレビを見ているのを見て立腹し、「出て行け」と言つてCを部屋から追い出してしまつた。一人残つた被告人は翌五日午後二時ころ起床し、国電両国駅付近で酒を飲んだ後、午後七時ころ、前記共同住宅の居室に帰つてきたところ、母やBばかりかCまで戻つてきており、母達の姿を見てほつとすると同時に、Cには「出て行け」と言つたのに平気な顔をして帰つて来ているのを見て、立腹し、Cに対して「お前出て行けと言つたのになんで帰つてきた」、さらに「なんでお前は金を入れないんだ」などと言つて、同人と取つ組み合いの喧嘩を始め、Bが呼んで来た家主Eの仲裁があつてもなお、口喧嘩をやめようとしないので、母、B、次いでCも同室から出て行つてしまい、被告人は気晴らしに外へ酒を飲みに行き、午後八時三〇分過ぎころ同室に戻つた。

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五七年三月五日午後八時三〇分過ぎ頃前記共同住宅(木造モルタルトタン葺二階建、延面積約102.3平方メートル、被告人一家の外Fら三名居住)二階の居室に戻つたものの、酒の勢いも手伝い、自分と同様に働いていながらギヤンブルばかりやつて生活費を負担しないCに対する不満、憎悪が募るばかりで、うつ憤は晴れず、同室南寄りに敷いた布団に横になつてCのことを一人思いめぐらすうちに、自暴自棄的な気持ちになり、その気持のおもむくまま、Cに対するあてこすりから、一瞬自殺を思い立ち、同日午後九時二〇分ころ、同室内西南寄り、前記布団の枕元付近にあつたガスストーブのガスホースを引き抜き、それを口にくわえ、布団にもぐり込み、ガスを吸入しようとしたが、死ぬのが急に恐くなり、ホースを口から離し、一転して今度は同室内に放火してCを驚かせ、かつ困らせてやろうと考え、ガスが噴出している右ガスホースを右手に持ち、左手にその場にあつた被告人所有の電子ライター(昭和五七年押第六九七号の一)を持つて噴出するガスに点火したが、炎の余りの大きさに驚愕、狼狽し、再転して慌てて突嗟に同室南側の窓を開け、右ガスホースを木製てすりに掛けるような形で室外に出すとともに、急いで同室西南隅の台所にあるガスの元栓を閉じたものの、その間、右窓の外側に吊してあつたよしず製のすだれに右ガスホースから出ていた炎が引火し、すだれが燃え上がつた。被告人はこれを目撃し、そのまま放置すれば自室を含む前記共同住宅に延焼しこれを焼燬するおそれが十分あることを認識しながら、かつ自らの行為により着火したものであるから当然直ちに消火活動にあたるべきであり、その際直ちに水をかける等の措置を講ずれば容易に消火しうる状態であつたにも拘らず、一瞬恐怖心が走つたものの、もともと自暴自棄的な気持ちであつたこともあつて、あえてそのままこれを放置して前記布団の中にもぐり込み、右よしず製すだれからその東側に吊していつたビニール(塩化ビニール系)製すだれへ、更に一階霧除け上に落下した右ビニール製すだれから、一階霧除け及び一階天井等に燃え移らせ、よつてFらが現に住居に使用している前記共同住宅一棟のうち一階天井、南側木ずり板等約一二平方メートルを焼燬したものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(主位的訴因に対する判断)

本件主位的訴因の要旨は、

「被告人は、昭和五七年三月五日午後九時一五分ころ、自室において、ガスストーブのホースを取りはずし、ホースから放出するガスに所携の電子ライターで点火して火を放ち、その炎を窓にかけてあつたすだれに引火させて一階霧除け及び一階天井等に燃え移らせて本件建物を焼燬した。」というにあり、そこでは、(1)ホースから放出するガスに点火した時点で実行の着手があり、以後の経過は犯罪の成否に影響しない、あるいは(2)被告人は放火の故意を有したままホースから噴出する炎をすだれに引火させた、という判断が前提となつている。そこで、この各点について判断する。

(1)  まず、ホースから放出するガスに点火した段階で、現住建造物等放火の実行の着手があつたものとみるべきかどうかという点についてであるが、被告人の当公判廷における供述、検察官に対する各供述調書、本所消防署消防士長根森三千雄作成の火災原因判定書等によると、被告人は、自殺を諦めた後、自室内周囲にある家具類に放火しようと決意し、自室南寄りに敷いた布団の上にすわり、右手でホースを持ち、左手に持つたライターで点火し、炎が五〇センチメートルから一メートル出たが、家具等に直接炎があたる状態ではなかつたと認められ、炎を噴出するホースを未だ自ら握持し、その火を自己の管理下にとどめていて被告人の意思に基づく次の行為がなければ周囲にある建物に延焼する可能性を有する可燃物に燃え移る具体的危険性が認められない以上、この段階で実行の着手があつたものとすることはできない。

(2)  次に、ガスホースを窓から外へ出し、すだれに引火させた時点で、なお被告人に当初の放火の故意が継続していたものと認められるかという点であるが、前掲証拠を総合すれば、被告人はガスホースから噴出するガスに点火後、その炎の大きさに驚愕・狼狽し、慌てて窓を開けて炎を室外に出し、ガスの元栓を閉めるという行動をとつたものと認められ、窓からホースを外へ出した行為は、直後のガスの元栓を閉める行動と併せ考えると、引火を防ぐ消極的過程での一連の行動とみるべきであり、この時点でなお当初の放火の故意を継続して有していたものと認めることは困難である。従つて、すだれに着火したことを被告人の放火行為に基づくものと評価することはできない。

以上説示のとおり、ガスへの点火自体を放火行為の着手とし、あるいはすだれに引火させて火を放つたとする主位的訴因はこれを認めることができない。

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、予備的訴因に対して、被告人には現住建造物への延焼についての認容がなく、放火の故意がなかつた旨主張し、被告人も当公判廷においてこれにそうかの如き供述をしているが、本件各証拠によると、本件建物焼燬の経過は、判示認定のとおりであつて、被告人は、弟に対する日頃の不満、憎悪を募らせ、自暴自棄の気持のおもむくまま、一旦は自室に放火することを企図してガスホースに点火し、その炎に驚愕、狼狽して着火したガスホースを窓外に出したものの、着火したガスホースから火が窓に下げてあつたすだれに燃え移り、判示建物焼燬の結果を発生させたものであり、(1)被告人は、火がすだれに燃え移つたことを目撃し、そのまま放置すれば、更に自室を含む判示共同住宅に燃焼するおそれが十分あることを認識していたものと認められること、(2)被告人は、自己の重過失とも言える行為に基づき火をすだれに着火させたものであり、すだれに着火した時点で容易に消火しうるにも拘らず、あえて目をつぶり、その消火にあたらなかつたものであること、(3)被告人は、当時自暴自棄的な心理状態の下で、次々と衝動的とも言える行動をくり返していたものであり、火がすだれに着火した時点で積極的消火活動に出なかつたことも右自暴自棄的な心理状態の一環と認められ(被告人の司法警察員に対する昭和五七年三月一二日付供述調書等)、以上認定の本件建物焼燬の経過、すだれに火を着火させた先行行為の内容、すだれに火が着火した時点での被告人の認識内容と消火行為の容易性、当時の被告人の自暴自棄的心理状態などを総合して考えると、被告人は、火がすだれに着火した時点で一瞬恐怖感が走つたとしても、これを目撃しながら放置したことは、結局本件建物焼燬の結果の発生に対する認容があつたものと評価せざるを得ないのであつて、右放置行為をもつて放火行為と同視し得るものと言うべきである。従つて、弁護人の主張は採用することができない。〈以下、省略〉

(田崎文夫 榎本巧 川神裕)

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